見上げてみると、そこには見知った顔が浮いていた。
 「おはよう」と、眠たげな瞳で笑いかけるそれに、彼女は「もう昼時は過ぎてるわよ」と、笑い返す。既に日は傾いている。紅の館の吸血鬼が起きだして、メイドに紅茶を催促している時間であろう。「おはよう」と、言うには少々可笑しな気もした。
 「今の今まで寝てたのよ。私にしては早起きよ?」と、顔の主――八雲 紫は続けて言う。更に彼女も「不健康ね。早死するわよ」と、続けて返す。
 数瞬の沈黙の後、「でしょうね」と、二人でクスクスと笑った。



 一頻笑った後に再び顔を上げると、紫が隙間から身を乗り出して目を瞑っていた。何のつもりかは判らない。八雲 紫という物はそういう物だ。何を考えているか判らない、気味の悪い物。十人に聞けば十人がそう返すだろう。
 だから彼女は問い掛けた。
「何のつもり?」
 月並みな言葉ではあったが、わざわざ遠回しに聞くのも面倒臭い。彼女の意図する事がとんと判らないのだ。
 問いに対して、「おはようのちゅーは無いの?」と、紫は胡散臭い笑顔で答える。それに彼女は、「無いわよ馬鹿」と、そっぽを向いた。
 彼女も紫の事は嫌いでは無かったが、人をおちょくる趣味だけはどうにも苦手ではあった。彼女の方もいくらか人をからかう事もあるけれど、それにしても紫は行き過ぎている。紫の気紛れに付き合わされる者の身にもなって欲しい。と、いうのは贅沢な要望ではあるまい。
 背中を向ける彼女に、紫が手を回す。眩く光るシルクの手袋が、日の光に映える陶磁の様な肌の上を滑る。彼女の身体をしっかりと抱き止めて、紫が耳元へと唇を寄せる。
「私と貴女の仲でしょう」



「ねぇ、幽香?」



 優雅で落ち着いてはいるけれど、喘ぎ声にも聞こえてしまいそうな程の淫靡な声。甘い吐息が鼻腔をくすぐる。冗談か。それとも本気か。全く区別は付かないけれど、推してみるに冗談四割は堅い様に思えた。しがみ付く紫に首だけで振り返り、「寝起きの口の中って汚いのよ。知ってた?」と、彼女は再び問い掛ける。
「変な病気で早死にしちゃうかもしれないわね」
 その紫の言葉に、また二人でクスクスと笑った。
 午後の気怠さが増す時刻の事。誰かが訪ねてくる様子も無く、元より彼女も暇を持て余していたのだ。六割足らずの本気であるが、気紛れに乗ってやるのも悪くは無い。彼女の方も半分程度は冗談である。
 紫の唇に、指を添える。肉厚の妖艶な唇は、柔らかく、それでいて張りがあった。「一回だけよ」と、紫の方へと向き直り微笑むと、紫もその唇を歪め綺麗に笑った。
 紫の手が彼女の頬を撫でる。彼女の方も手を伸ばし、隙間から乗り出した紫の肩に触れる。熟れた果実よりも紅く、艶やかな紫の唇。そして薄い桜色の幽香の唇。
 ゆっくりと彼女が唇を寄せる。
 肩に置いた手に力を込めて。
 紫の身体を引き寄せようと。
 けれど、途中で唐突に彼女が止まった。
 先に述べた様に、八雲 紫という物は意地が悪い。彼女が必至で力を込めようと、紫の唇は届かない場所にある。二人の唇が触れ合うまで、あと数センチの所。八雲 紫という物は、意地が、悪い。
 紫が何を求めているのかは幽香には判らないけれど、彼女には解は一つしか無い様に思えた。
 背伸びをすれば届く距離。
 小さな背伸びで触れ合える、距離。
 小さな足に力を込めて、身体を持ち上げる。転びそうにはなるけれど、紫に掴まっていれば大丈夫。紫が支えてくれるなら、何も問題は無い。
 
 唇が、触れる。

 キスはレモンの味がする。なんて言うけれど、馬鹿げた話だ。甘酸っぱいとの物の喩えで言うのだろうが、そんなもの嘘っぱちだ。
 女の子の身体は砂糖とチョコレートと、甘い物沢山でできていると言ったのは誰だったか。重ねた唇は、ただ、ただ、甘く、甘く。ほんの少し触れ合っただけなのに、胸焼けする位甘い、唇。
 紫が幽香の唇を食む。
 唇を重ねるだけの幼いキスでは満足は出来そうにも無いらしい。稚児の遊びにも等しい行為など、紫にとってはキスの内にも入らない。
 唇を唇で包み込み、その表面を舌先でなぞる。二度、三度と。少し乾いた幽香の唇を湿らせる様に。
 視線は交錯している。大きな瞳。少女の様でもあり、女性の様でもある、幽香の眼。それが不意に歪んだ。
 紫の方も彼女の意は判らない。解等という面倒臭い物は導き出せそうにも無い。己の行為が正解か、不正解かは判らない。けれど、試してみる価値はある。途中式など放り出してしまえばいい。結果だけがあればそれでいい。
 舌を伸ばし、唇の隙間へと滑り込ませる。抵抗は無い。代わりと言って良いのかどうかは判らないが、幽香は紫の舌を食み返し出迎えた。どうやら紫の解は、合格点ではあるらしかった。
 さらに紫は下を伸ばす。舌を包む口腔の熱が、妙に心地良い。
 先ず触れるのは幽香の歯茎。先程とは違い、今度は彼女の唾液を舐め摂る様に舌を這わす。唇の裏側、犬歯の生際、そして奥歯まで。懸命に舌を伸ばし、粘膜を犯す。絡み付く唾液は、蜜の様に濃い。
 そして舌先に走る、突然の痺れ。遠慮がちに伸ばした幽香の舌が、紫の物に触れていた。
 舌と舌を絡め合おうと、口腔内を紫が滑る。けれど幽香は取り合おうとはしない。先に触れて来たのは彼女の方だけれど、紫が触れる度に彼女は逃げる。幽香が逃げて、紫が追う。
 幾度かそうした後に、彼女の舌は動きを止めた。終に観念したのか、それともこの不毛な行為に満足したのか。ともかく、彼女は逃避を辞めて、再びおずおずと舌を伸ばした。
 二人が再び、舌先で触れ合う。
 そして、逃げる、紫。
 今度は紫が逃げる番だ。鬼が代わって、再び始まる鬼ごっこ。幽香の中を蹂躙する様に逃げる紫。紫を追う幽香の中。何度も、何度も犯されて、蜜で溢れ返った彼女の中。
 紫の舌に犯される度に、口腔内を満たす、形容し難い快感。
 幽香の中を犯す度に、脳髄に走る、形容し難い快感。
 追う度に。
 逃げる度に。
 長く、続く快感の連鎖。
 けれど、何事にも永遠等といった事は無い。二度目の鬼ごっこも、唐突に終わりを迎えた。何事も無かった様に、紫が舌を引っ込める。あれだけ彼女を凌辱しておいて、終わる時は本当に呆気無かった。
 唇はそのままに、彼女は紫の眼を見る。何時もの胡散臭い笑みが浮かぶ、紫の顔。「意地悪」とでも言いたさ気に、紫を睨みつける彼女。
 鬼ごっこは終わったが、何も彼女等の口接が終わった訳では無い。鬼ごっこの鬼が変わった様に、次は幽香の番というだけだ。
 彼女が舌を伸ばす。目指すは当然紫の中だ。滑らかにとはいかないけれど、それでもゆっくりと確実に紫の口腔へと進ませる。
 中程まで進んだ所で、紫の歯が彼女の舌先を挟み込んだ。傷付けない様、優しく。身動きが出来ない様、力強く。触れ合う舌と舌。けれど、彼女の舌は動けない。紫の物だけが、一方的に、彼女の舌先を擦り上げる。勃起した陰核を舐め上げる時の様に、いやらしく、丁寧な動き。
 性感帯の様に敏感な舌先を擦り上げられる度、カクカクと膝が揺れる。快感に屈指まいと耐える顔は、人が見ればさぞかし間抜けな物であるだろう。けれど、それは紫の方も同じ。舌先を擦り上げられるのも、擦り上げるのも感覚に何ら違いは無い。脳天から足先まで突き抜ける感覚に、幽香が身を捩る度、紫も隙間の向こうで震えている。
 犯される側と犯す側の表情はどちらも恍惚とした物であった。
 そしてまた唐突に、紫が唇を離す。性感帯の様だとは言ったけれど、どう足掻いても、舌先が陰核や乳頭に取って代わる等と言った事は有り得ないのだ。口腔を犯すだけでイけるのならば、性行為など無用の長物だ。限りなくイけそうな感覚を延々と脳髄に叩き込まれては、気を違えてしまいそうだったから。
 離れた唇の間を伝う糸。互いの呼吸は荒い。
「紫って、凄く、我儘」
 幽香が不貞腐れた顔でぼそりと呟いた。
 一方的に人を犯して、一方的に切り上げるなんて、我儘以外の何物でもあるまい。
 唾液で汚れた紫の唇に、幽香がもう一度指を添える。
「我儘過ぎると、女の子に嫌われるわよ」
「貴女は嫌い?」
「残念だけれど、私は女の子じゃあないの」
 そう答えながら、また、背伸び。「今度は私の分」と、幽香が浮かべるのは、紫に負けず劣らずの妖艶な笑み。これを少女と言うには些か難点があった。
 間に引く糸を手繰る様に、再び唇を寄せる。先程の様に、中程で止まりはしない。至極あっさりと、二人の唇が重なる。そして今度は幽香が紫の唇を食む。先程紫がした様に、唇を舌でなぞる。けれど先程の紫の様に、乾いた唇を湿らせる訳では無い。そこにあるのは、唾液で汚れた、汚らしい唇。口角に溜まる唾液を、滴り落ちそうな程濃い蜜を、その舌でゆっくりと掬い取る。
 「私の分」と、宣言したからには彼女は紫に主導権を握らせはしない。紫に良い様にされたままというのは癪に障る。彼女は必ず我を通す。風見 幽香という物はそう言う物で、更に言えば紫程とは言わずとも、意地が、悪い。
 幽香が唇を離す。顔に浮かべるのは意地の悪い笑み。
 幽香が口を開く。舌の上に溜まるのは二人の唾液。
 何も言わずに、幽香はそれを指で掬い取る。口から指先へ、絡み付く唾液が糸を引き、陽光に光る。それを紫の口元へ差し出して、幽香は笑う。手料理を振る舞う少女の様に、喜々として、彼女は笑う。
「あーん」
 「美味しそうでしょう?」とでも言いたげな幽香の瞳。汚らしい蜜が彼女の指を伝う。
 そう、汚らしいとは紫の方も理解はしている。唾液は臭く、汚い物。しかし、しかしだ。目の前にあるのは蜜だ。
 先程の口接で昂った脳髄は、まともな判断を下してくれそうも無い。情欲に支配されるとは八雲 紫の名折れであるとは思うけれど、彼女も一人の女である。甘い物には勝てそうも無い。幽香と言う花から搾り取られた甘い蜜。目の前に差し出されたそれを食べない理由が何処にある?
 紫が幽香の指にしゃぶり付く。指の付け根から指先まで舌を這わせ、蜜を舐める。爪と肉の間まで丹念に舐めとって、今度は先から根元まで。男根を口で扱く様に丁寧に、優しく。
 「がっ付かないの」と、紫の口腔から指を抜く。熱を持った指先。桜色に染まったそれで、もう一度唾液を掬い、紫の口元へ。
 また、紫が指にしゃぶり付く。一心不乱に指を吸い、肌に染み込んだ蜜を吸い取る様に。
 まるで母の乳を吸う子供。もしくは、何かの中毒者だ。
 「美味しい?」と、幽香が問うが、紫は指を咥えたまま、彼女を上目使いで見つめるだけである。
 情欲に狂った八雲 紫の少女の如き顔が拝めるのは、幻想郷広しと言えど、彼女くらいであろう。
 指を抜き取り、唾液を付けて。差し出すのは唇では無く胸元へ。それを咥えようと、紫が首を伸ばす。
 後少しという所で指を下へ。それを追う様に隙間が滑る。追い付くのはそう難しい事では無い。幽香の方も紫をからかおうとしている訳でも無い。
 また指を咥える紫の顔は、幽香を見上げる位置にある。先の紫と幽香の位置が入れ替わったと考えれば判りやすい。
 もう一方の手を紫の前に差し出すと、彼女はそれをも咥え込む。一度に二本も咥え込むとは、彼女も中々に卑しい女である。
 それに蜜が絡んでいるかどうかなんて、既に関係は無いのだ。ただ、目の前に幽香の指があるから咥えるだけの事。ふぅふぅ。と、息を吐き懸命に指を吸う紫の姿は、既に人の型では無く、何か獣の様に感じられた。
 幽香が両手の指を引く。無理矢理に開かれた紫の中は、幽香と自分の物でぐちゃぐちゃに汚れていた。
 そのままに幽香を見上げる紫の顔は、余りに間抜け。けれど、その必死な表情が、余りにも淫猥で、途方も無く嗜虐心をそそるから。
 「御褒美上げる」と、幽香が笑う。音を立て口に残る唾液を絞り、舌を出す。未だ紫の口は指で開かれたまま。折角のご褒美を落として仕舞わぬ様にと、彼女も懸命に舌を伸ばす。
 舌に乗った泡立つ唾液。
 蜜の塊は、幽香の舌を伝いながら糸を引き、紫の舌へ。
 紫が受け止めるのを確認してから、幽香が指を離す。紫は舌の上のそれをどうする事も出来ずに、口へと含む。
 「直ぐに飲み込んじゃ駄目よ?」と、幽香は言うけれど、そんな事言われなくても判っている。精液よりも大切な幽香の唾液。精液よりも濃厚で甘い幽香を、味合わずに飲み込んで仕舞うなんて、そんな勿体の無い事をする訳が無い。
 舌の上で唾液を転がす。口全体に幽香の味が行き渡る様に、己の口腔の粘膜に唾液を丹念に擦り込んで行く。己の唾液と混じり合い、幽香の味が判らなくなってしまっても。
「はい、ごっくん」
 幽香に促されて、紫は咽喉を鳴らす。幽香をもう少し味わっていたかったけれど、当の幽香に言われれば、それに従う他は無い。
 紫が幽香を見上げる。幽香は紫を見下ろす。
 未だ食い足りぬ紫の眼に映るのは、幽香の唇。唾液で汚れた幽香の唇。未だ口接の余韻が残る幽香の眼に映るのは、紫の唇。唾液で光る紫の唇。
 互いに言葉は無い。今再び唇を寄せるのみ。
 唇を重ねるのはこれで三度。一度目は紫のため。二度目は幽香のため。
 乱暴に舌を突き入れて、口腔を弄る。強引に唇を吸い、唾液を求める。
 三度目はどちらのためでも無く、二人は己のためだけに唇を吸う。互いの事を考える余裕等無く、ただ、その唇と唾液が欲しいだけ。
 気が遠くなる位長い間生きては来たけれど、こんなに初々しく唇を求めた事等、覚えが無かった。二人の接点から立ついやらしい音が、こんなにも恥ずかしい物だとは知らなかった。
 乳首は痛い位に、陰核は包皮を突き破らんとせんばかりに勃起している。割れ目から染み出したモノで、下着は気持ち悪い位に濡れている。けれど、それでも、彼女等が欲しいのは唇と唾液。
 幾ら唇を吸おうとも、互いに吸い続ける限りは、互いの蜜を味わう事等出来なくて。それでも、蜜が欲しいから、ただ、唇を吸って。行き場を無くした唾液は口角から滴り落ち、二人を汚す。大きく開いた紫の胸元は、泡立つ唾液で艶かしく光り、幽香の窮屈そうなブラウスは、唾液で濡れて肌に貼り付いている。
 けれど、それでいいのかもしれない。
 紫の腹が満たされぬ内は、彼女等は繋がったまま。幽香が満足しない限りは、二人は唇を重ね続ける。
 向日葵畑に響くのは、二人の息遣いと、繋がる音のみ。
 このまま時間が止まって仕舞えばいい。と、少女染みた事を考える。永遠に彼女と繋がって、気を違えてしまっても彼女と繋がって、たとえ蜜を喰うだけの奇妙な肉塊に成り果てようと。
 日は傾いている。









 このまま時間が止まってしまえばいいのに









「一度着替えないといけないわね」
 ドロドロに汚れた、自分のドレスを見ながら紫が呟いた。「でしょうね」と、身嗜みを整えるその幽香も、べとべとに汚れていて。
 そして二人でクスクスと笑った。
「じゃあ、また、明日」
 そう言う紫の顔は少し寂し気。
「えぇ、また、明日」
 そう返す幽香の顔もまた寂し気。
 別れと言う物はいつも物悲しい。須臾であろうと永遠であろうと、別れは切ない。
 けれど、彼女等は「明日」と、言ったから。
 紫は少女染みた頬笑みを浮かべ、隙間を閉じる。
 幽香は少女染みた微笑みを浮かべ、小さく手を振る。
 明日にまた会える事が、途方も無く嬉しかった。



 日が沈む



                                                 ―了―