博麗 霊夢は餓えていた。飢餓と言う言葉等が生易しく聞こえる程に、彼女は糧を欲していた。
 季節は冬。降り積もる雪は例年に無いほど深く、幻想郷を真白に染め上げていた。
 彼女としては、冬を越せる程度の蓄えは用意しておいたつもりだった。しかし、実際問題として蓄えは底を尽いた。思い返してみるに、冬入り前の連日の宴会が問題だったのだろう。もともと余分な蓄え等無かったのだ。目に見えて減っている蓄えを見、切り詰めて生活してみる事にしてみたものの、やはり一冬越すのに十分な量とは言えず。それは数週の間に姿を消した。
 そこでまず、彼女は里の者達を頼る事にした。其々の家を回り、其々の蓄えをほんの少しずつ分けて貰って彼女は食い繋いでいた。初めは里の者達も「巫女様のためならば」と言い、喜んで米やら、芋やら諸々を差し出してくれたのだが、回を重ねるにつれ彼等の顔は訝しげになり、仕舞いには「もう、貴女に差し上げる物は無いのです」と、門前払いされる様になってしまった。それも当然の事。彼等とて生活が懸かっているのだ。巫女を養うために己が貧困に喘ぐ等といった事をするはずも無い。自らが冬を越せるかどうかという状況で、巫女の面倒などは見ていられなかったのだ。
 次に魔理沙に助けを求めてみたもの物の、彼女の家の玄関先には「研究中 御用のある方は春に」と、可愛らしい文字で書かれた紙が張られていただけである。ドアをノックしてみても、彼女が出てくる気配は無い。寝食を忘れて研究に没頭する彼女の事、誰かが家先に訪れても気付く筈が無かった。そして頼みの綱の紫は冬眠中。肝心な時に使えない。と、愚痴を溢してみるも、吐息がただ深々と降り積もる雪の中に融けて行くだけであった。
 いよいよ持って彼女は己が置かれた境遇を自覚し始めた。生来の楽天的な性格が祟ったか、彼女は自分の愚かさを悔やんだ。

 博麗霊夢は餓えていた。
 腹の虫すらも息絶えたのか、彼の声を久しく聞いていない。まともな食事を取ったのは何時だったか。それすらも思い出せぬ程に彼女は長く餓えていた。
 何か無いものか。と、部屋を中をぐるりと見回してみる。しかし、当然の事ではあるが、飢えを凌ぐに足る物が在るはずが無かった。部屋に在るのは卓袱台とその上に置かれた急須。そして漆塗りの茶筒。
 それに気付いた霊夢は何を思ったのか、ずるずると畳みの上を這って行き、茶筒に手を伸ばした。少しの力を込めると、ぽん。と軽い音を立て、蓋が抜けた。見れば中には幾許かの茶葉が残っていた。
 数瞬の沈黙。
 それは多寡が数秒程度の沈黙ではあったのだが、彼女にとっては数分、数十分、数時間にも等しい葛藤であった。
 そして、彼女は意を決した。
 茶筒の縁を乾いた唇に当て、茶葉を一気に口の中に注ぎ込む。
 唾液に濡れた茶葉から広がる、何とも言えない苦味。しかし、それでも彼女はそれを咀嚼する事を止めなかった。咀嚼する度に苦味が濃さを増し溢れ出て来る。米を噛み続ければ甘みが染み出てくるのと同じ様に。
 彼女は泣きながら茶葉を喰った。
 茶葉を喰らわなければならない己の惨めさと。
 茶葉とは言え飯を喰ろうた喜びから。

 彼女は泣きながら茶葉を喰った。





























 冬が明けた。
 未だ雪は残るものの、柔らかな陽光と暖かな風は確実に春の訪れを告げていた。
 神社の周りの桜は小さな蕾を膨らませ、本格的な春の到来を今かと待ち侘びていた。この様子なら、あと数日の後には花見が出来るだろう。神社での宴会は四半年振り程になるだろうか。と、霧雨 魔理沙は満面の笑みを浮かべ、神社の参道に降り立った。なにも宴会だけでは無い。霊夢と会うのも久し振りである。今年の冬は研究に没頭する余り、彼女は碌に外にも出なかった。四半年という短いとも長いとも言えない期間ではあったが、旧友と顔を合わせる時の照れ臭い様な、嬉しい様なくすぐったい感覚を胸に抱き、彼女は神社に足を踏み入れた。
 しかし、神社の中には霊夢はいなかった。その代わり。と、言っては何だが、卓袱台の陰に何か、人間大の何かがぽつんと置いてあった。それを見た魔理沙の頭には、まず『餓鬼』という言葉が浮かんだ。頬は痩せこけ。眼孔は窪み。頭髪は所々抜け落ちて。呼吸をする度にひゅーひゅーと空気の抜ける様な音がして、浮き出たあばらが上下する。それの姿は正しく餓鬼道その物であった。
 魔理沙が訪ねて来た事に気付いたのか、それは目玉だけをぎょろりと動かして、彼女の方を見る。「ひっ」と、魔理沙の口から漏れる引き攣った声。
 彼女の姿を確認すると、それは口の両端を力無く吊り上げた。あるいはそれは笑おうとしていたのかも知れぬ。しかし、死んだ魚の様な目は笑うという行為からは程遠い物。ぱくぱくと鯉の様に口を動かして、それは掠れる声で「あぁ、魔理沙久し振りね」と、言った。
 彼女はそこでようやっと、それが何であるかに気が付いた。
 そこに転がる醜い肉塊が博麗 霊夢であるという事に。
「悪いけれど、お茶は自分で入れて頂戴。今、ちょっと疲れていてね」
 彼女の身体には四肢が付いていなかった。
 彼女の周りに転がる人骨。中程から裂かれ、綿が散乱した布団。擦り切れた畳。糞尿があちこちに散乱した、荒みに荒み切った部屋。
 霊夢が何故こんな姿になってしまっていたのか、魔理沙には理解出来なかった。いや、彼女は理解はしている。ただ、彼女は認めたく無かったのだろう。彼女の脳は現実を受け止めるよりも、思考を放棄する事を選んだのだ。
 博麗 霊夢は己の四肢を喰って飢えを凌いだ。
 生きる為に彼女は己を喰った。足を喰い。腿を喰い。それでも尚足らず。手を喰い。腕を喰い。己が骨を髄までしゃぶり。達磨の様になってまで。終には喰うべき所も無くなり、布団を裂き綿を喰らい、畳に齧り付く程に彼女は餓えていた。用を足そうにも、厠に行くための気力すらも無く、ただその場に糞尿を垂れ流して。やもすると彼女は己の排泄物すら喰らっていたのかもしれぬ。
 魔理沙の口から嗚咽が漏れる。認めたく無かった。信じたく無かった。これが無二の友人、博麗 霊夢の変わり果てた姿であると。
「どうしたの?突然泣き出すなんて。貴女らしくも無い」
 霊夢の口から吐き出されるのは、何時もの様に柔らかな声。
 魔理沙が泣いていると、ゆっくりとしていられない。と、彼女は思った。だから彼女は「ねぇ、どうしたの?」と、魔理沙に問い掛けた。涙を流す友人をどうして放って置けようか。
 ずるりずるりと身体を引き摺って。「ねぇ、どうしたの?」と。
 ずるりずるりと魔理沙の方へ。「ねぇ、どうしたの?」と。
 蛆の如く身体を蠢かせ。壊れた蓄音機の様に呪詛の言葉を繰り返す。
 霊夢の顔をした肉塊は魔理沙の足元へ這い拠って来る。魔理沙は泣き声こそ上げないものの、瞳から大粒の涙を流し、西洋人形のような幼い顔をくしゃくしゃに歪ませていた。そして、肉塊が足元から顔を覗きこみ「ねぇ、どうしたの?」と、笑った――もう一度、唇を歪ませた所で、彼女のタガは外れてしまった。もう人としての原型を留めていないそれが、余りにも恐ろしく、余りにも不気味だったから。
 消化器官が痙攣し内容物を彼女の口腔内に送り出す。ごほごほと咳き込みながら、彼女はそれを畳と、霊夢の上へ撒き散らした。しかし霊夢は降り掛かる吐瀉物を振り払おうともしない。否。出来ないのだ。払おうにもそのための腕は無く、また払うだけの気力も無かった。
 それでも尚、表情を変える事無く無機質に歪む霊夢の顔を見、「いやぁあ、ああ、あああ」と、悲鳴とも嗚咽とも付かない声を上げ、魔理沙は神社を飛び出した。
「何だったのかしら?」
 一方の霊夢は穏やかその物。
 彼女の所用が気になる所ではあるが、まぁ、これでゆっくりと出来る。と、彼女は息を吐いた。
 魔理沙が開けっ放しにして行った障子から、柔らかな春の陽光が差し込んでいる。その場でごろんと仰向けになってみる。全身を包み込む光が妙に心地良い。このまま昼寝をしてみるというのも悪くは無いだろう。少し、疲れているから、一度寝れば楽にもなろう。
 そう思い、彼女はゆっくりと瞼を閉じて――
「あら霊夢。久し振りね」

――折角いい気分で午睡を楽しもうと思っていたのに。

 人が何かをしようとしている時には必ずと言っていい程邪魔が入る。人生とはそういう風に出来ている物で、何事も旨く事が運ぶ事等ありはしない。それは霊夢の経験談でもあったし、また普遍の真理とも言える。
 目を開けるのも億劫で、開けたとしても逆光で顔の確認などは出来ないだろう。けれど、その声――幼いながらも、威厳に満ちた声に霊夢は聞き覚えがあった。
「それにしても、面白い身体になったものね」
 声の主はクスクス笑う。
「皮肉なら間に合ってるわ」
 声こそ枯れて、呻き声と区別が付かぬ程ではあったが、口調の方はいつもの調子。そんな彼女の声を聞き、笑い声は一層大きくなる。
 放って置けば彼女は直に息絶える。運命を見るまでも無い。誰が見てもそれは明らかであった。だから彼女は笑った。道端で潰れる虫を、幼子が無邪気に笑う事と同じ様なものだ。

「貴女、そろそろ死ぬでしょうね」

「知ってるわ」

「貴女が死ねば、幻想郷は終わるわ」

「そうね」

「まぁ、私にはどうでもいい事なのだけれど」

「そう」

「でも、貴女がもう少し生きてみたいと言うのなら」

「うん」

「私のペットになってみない?」

 面倒臭い。と、深く考える事もせず、霊夢はその案を二つ返事で了承した。



 何故お嬢様は朽木を抱えているのだろうか。と、咲夜は初めに考えた。
「お帰りなさいませ」
「あぁ、咲夜。丁度良いわ、昨日のシチューの残りがあったわね?」
「と、言いますと」
 「お腹が減ってるらしいのよ」と、レミリアが腕の中のそれを顎で指した時、彼女は一見枯れ木に見えるそれが人である事に気が付いた。
 四肢は欠け、骨と皮だけになった身体。黒糸を頭蓋に糊で付けたといった風貌からは、それが誰であるか判断のしようがない。けれど、霊夢と咲夜は旧知の間柄。姿形が変わり果てようと、数少ない友人の事を間違えるはずもない。主に確認を取ってみれば、それはやはり咲夜の友人、博麗 霊夢であった。
「ペットになってくれるんですって」
 嬉々とした表情でレミリアが笑う。それを聞いて「それは喜ばしい事です」と、咲夜も笑う。
「ですが、シチューは処分するつもりでいましたので」
「それでもいいわ」
「それならば」
 「良かったわね霊夢。御飯、食べられるわよ」と腕の中の霊夢に向かって、レミリアは微笑む。顔を上げてみると、既に咲夜が食器を持って立っている。レミリアは霊夢を真紅のカーペットの上に降ろし、咲夜は霊夢の眼前に銀の食器を差し出して。
 つんと、異臭が鼻を突く。鼠や虫の死骸が浮かび、蛆が集る。生ゴミが乱雑に詰め込まれ、腐臭を漂わせたそれはシチューと呼べる様な、人の食べ物と呼べる様な代物では無かった。しかしながら、彼女等には、霊夢に人並みの物を食べさせてやろうという気は毛頭無かったし、それを口に運んでやろうとも思わなかった。
 レミリアは「私のペットになってみない?」と、霊夢に問い、霊夢はそれを承諾した。主と同じ物を食う家畜が何処に居よう。
 さて、当の霊夢は目の前に置かれた豚の餌を見て、ごくりと唾を飲み込んだ。
 汚らしいそれを見て彼女は思う。
 美味しそう。と。
 それが食べ物と言える物で無い事は判っている。豚が貪る様な物だと判っている。けれど、己の手足に比べて見れば、綿や畳に比べて見れば、それは圧倒的に食べ物であった。
 霊夢は一心不乱にそれにむしゃぶり付いた。家畜には不相応な銀食器に顔を埋め、鼠の死骸を噛み砕き、蛆を啜り、ごくごくと喉を鳴らしそれを喰った。
「霊夢、美味しい?」
 彼女の問いに霊夢はただ「美味しいです。美味しいです」と、繰り返す。その言葉は偽りでは無く、全くの本心から。
 レミリアは、悪魔には似つかわしく無い柔らかな笑顔を浮かべ、乳を飲む赤子を抱く母親の様に、愛おしそうに霊夢を見つめていた。咲夜の方も微笑むばかり。嗚咽を漏らし泣きじゃくった魔理沙とは違い、嫌悪の表情一つ見せなかった。生来の嗜好からか、はたまた吸血鬼に毒されたのからなのか。ともかく、彼女は餓鬼の如くゴミを喰らう家畜の姿を見て、なんとも言えぬ恍惚の表情を浮かべていた。
「凄く、綺麗」
 初めて霊夢を見た時も、同じ思いを抱いた事を彼女は思い出した。
 機能美という物がある。一つの方向に、極限まで洗練された物は美しいという話だ。例えばスプーン一つ、ナイフ一つでいい。其々にベクトルの違いはあれど、最終的に物が辿り着くのは美の領域だ。
 無駄な筋肉も脂肪も無い。身体、顔付きは勿論の事、腕を振る動作でさえも洗練され、一つ一つに意味が在るかの様に。博麗 霊夢の立ち振る舞い。彼女の全てが美しいと咲夜は常々思っていた。メイドとして彼女の様に美しくありたいと。
 そして、今の霊夢も一種の極限にある。今の彼女が持ち得るのは、生きる為の器官だけ。彼女の身体は何を為すでも無く、生きるためだけに在った。
「後は、眼を抉って、耳と鼻を削ぎ落として、喉を潰せば完璧なのでしょうけど」
 至極残念そうに咲夜が呟く。多分にそれも本心から。
「でも、女の子の顔を潰すというのは気が引けますわ。それはそれで需要がありますけれど」
「随分ご立派な性癖ね。気でも違えたかしら?」
「どちらにせよ、お嬢様には及びませんわ」
 「まぁ、やるからには生殖器も引き摺り出すべきね」と、レミリアはケラケラと笑う。釣られて咲夜もクスクスと笑う。
 一頻り笑った後に、二人が霊夢に視線を戻してみると、彼女は食器に顔を埋め、微動だにせずに床に転がっていた。終に息絶えたかとも思ったが、微かに上下する背中を見るに、どうやらそうでも無い様だ。多分に彼女は眠りこけているのであろう。食欲が満たされて、襲って来た強烈な睡眠欲に抗えず、その場で眠りに落ちたと考えるのが妥当だろうか。
「ねぇ、お姉さま。咲夜。何やってるの?」
 そこで突然声が響いた。レミリアの声よりも更に幼く。幾分か間延びした声。
 わざわざ声の主を一考するには当たらないだろう、ここまで幼い声の持ち主等そうそう居ないだろうし、何よりこの館でレミリアを『お姉さま』等と呼ぶ者は一人しか居ないのだから。
「あら、フラン。これを見て頂戴」
 レミリアの視線の先には、すぅすぅと寝息を立てて床に突伏する霊夢の姿。
 「霊夢がペットになってくれるんですって」と、言い聞かせると、フランドールは「ほんと?霊夢がペットになってくれるの?私の家族になってくれるの?」と、無邪気な表情で叫ぶ様に声を上げた。それを聞いて、レミリアが目を白黒させる。家畜が家族とは、フランドールも中々面白い冗談を言う様になったものだ。「まるで人間みたいな事を言うのね」との言葉に、フランドールが「だって、パチュリーのご本に書いてあったんだもの」と、頬を膨らませた。
 五百年弱幽閉されていたフランドールである。意思疎通を行うに当たって、話す分には不自由ないが無いが、読み書きとなると少々覚束無い。少々浮世離れしている事もあるし、世間一般の常識を身に付けさせる為にも、本でも読ませれば良いとレミリアは考えた訳なのだが。
 本と言えばパチュリー。パチュリーと言えば本。当然フランドールが読む物は彼女の書斎の本に他ならない。圧倒的な蔵書量を誇る彼女の書斎の事、人間の読む様な下らない書物――本という物は得てして下らない物であるのだが――も、無数にある。彼女が熱心に読み漁っていたのはその様な下らない物だったのだろう。
 しかし、下らない物と言えど、下々の者共の考えを学ぶという事は、上に立つ者にとっての重要事項である。その点から見れば、フランドールの考えは悪くは無い。そもそも読書といった行為は暇潰しの手段であるし、家畜を愛玩するという行為も暇潰しの手段である。暇潰しの道具からどう学び、暇潰しの道具をどう思い、どう扱おうと特に問題は無いだろう。
 ふぅ。と、息を吐き一呼吸。「霊夢の躾係は貴女に任せるわ」と、レミリア。そして「畏まりました」と、咲夜が一礼する。
 この場に居るのは女が一人と悪魔が二匹。あとは肉塊が一つ転がっているだけである。
 規則的に上下する霊夢の背中を、彼女等はただ、ただ愛おしそうに見つめていた。









 初日 ―十六夜 咲夜―



 霊夢が目覚めたのは翌日の夕時を過ぎてから。
 包まれた毛布の中から覗く顔は、未だ即身仏の様に痩せこけたままではあるが、色艶の方は昨日よりも幾分かマシになった様である。
 まず、彼女は自分の身体を見、酷く落胆した。自分の四肢は何処にも見当たらなかった。歪に切り取られた自分の肩。自らが喰らった己の四肢の面影は、その醜い傷痕だけである。夢であればとも思ったが、人生はそう都合よくはできていない物。先に述べた通りの彼女の持論そのままである。
 さて、彼女には今の状況がさっぱり理解出来なかった。と、言うのも、レミリアが神社に来てからの記憶がすっぽりと抜け落ちている。レミリアに何かを問われ、二つ返事で了承した所までは覚えているものの、その後の記憶がどうにも思い出せない。
 腹の調子――空腹感はあるものの、あの極限の状態から比べれば空腹の内にも入らない程度――から考えるに、何かを食べさせて貰った様な気がするのだが。
「お目覚めかしら?」
 声を聞き、顔を上げると、そこには見知った顔。
「調子はどう?」
 咲夜が椅子に腰掛け、霊夢の方を見下ろしていた。机に灯る読書灯。読書鏡を掛けたその姿は癖の強い白髪と相俟って、いつにも増して老成している様に見える。
 「まぁまぁかしらね」と、霊夢が返す。
「所で、今の状況を説明して欲しいのだけれど」
 「そうねぇ」と、咲夜が顎に指を差し、一時思案。事の顛末を一から十まで話しても良かったのだが、それは時間の無駄でしかない。何より理解力の高い霊夢の事だ、無駄な言葉など必要無い。
「お嬢様のペットになる。と、聞いたけれど」
 それを聞いて、今度は霊夢が思案する。
「確かに、言ったような気もするわ」
 しかし、だ。レミリアのペットになる気等、今の霊夢にはさらさら無かった。空腹で朦朧とした中、まともな思考回路など持ち合わせていなかったのだ。あの時の霊夢なら、死ねと言われていても無機的に頷くばかりであっただろう。
 約束を反故にする事も出来る。しかし、神社に帰った所で生活の当ては無い。何よりこの身体で、人並みの生活を送れるとも思わなかった。
 如何するべきか。と、そこまで考えた所で、乾いた音を立て部屋の扉が開いた。
「霊夢は起きたかしら」
 ドアノブの高さ程しかない背と、ちょこちょこと歩く愛らしい姿。そして、幼いながらも威厳に満ち溢れたその声。
「たった今、目覚めた所ですわ」
 何時の間にか起立した咲夜が、レミリアに向かって一礼する。
 レミリアは視界に霊夢を捉えると、そのまま彼女は霊夢の元に歩み寄り、視線を合わせる様に霊夢の前で屈む。
「おはよう、霊夢」
 レミリアは小さく微笑む。顔を綺麗に歪めるその姿は、容姿に似合わず淑女然として。
「えぇ。おはよう――
 そこまで言った所で、次の言葉は「かはっ」と、空気の漏れる情けない音となって口を出た。
 突然、頭を後ろに引っ張られ、身体が仰け反る。何が起こったのか、瞬時には理解出来なかった。それでも誰かが髪の毛を引っ張り上げ、言葉を遮ったと気付くのに要した時間は数秒程。
「ペットがお嬢様に対する口の利き方としては、余りにも失礼だとは思わないのかしら?」
 背後から響くのは、咲夜の声。しかし、何時もの様に柔らかな年頃の少女の声では無い。耳元で「今ここで、貴女の喉を掻き切ってもいいのだけれど」と、機械的な声で咲夜が囁く。キリキリと痛む伸び切った首に、冷たいナイフの刃が当たる。咲夜はやると言えばやる女だ。真紅の絨毯を褐色に染め直す事に躊躇等しないだろう。
 「霊夢も始めての事だから、勝手が判らないのよ」と、レミリアが「ねぇ?」と、霊夢に笑いかける。冷たい何かが這い回る様な、ぞくりとした感触が霊夢の背中を駆け抜ける。レミリアの表情はこれ以上ない位の笑み。下った目尻、吊り上がった口角、口から真白な犬歯を覗かせたその表情は、笑っているとしか形容出来ぬ。しかし、霊夢を見つめるその視線は、凍える程に冷たく、まるで蟻でも見るかの様で。
「返事は?」
 一層強く引っ張られる彼女の頭。ナイフが首筋をなぞる感触。
 霊夢はすっかり失念していたのだ、レミリア・スカーレットが悪魔であるという事を。口約束であろうと何であろうと、霊夢は悪魔の提案を受け入れた。こちらの意識が不確かだったからというのは、言い訳にも成り得ない。何より、言葉巧みに人を誘い、契約させるというのは悪魔の手口その物ではなかったか?
 レミリアも咲夜も、霊夢を一人間としては見ていなかった。レミリアの提案を承諾した時点で、霊夢は愛すべき友人から、愛すべき家畜に格下げされている。反故にする等といった選択肢は、元より霊夢は持ち合わせていない。そうしようものなら、即時にレミリアは「やれ」と、咲夜に笑いかけるだろう。
「も、申し訳……ありません。お嬢……様」
 既に道は在る。彼女に出来るのは道なりに歩く事のみ。
 「やれば出来るじゃない」と、満足げに呟いて、レミリアは腰を上げた。
「夕飯にしましょう。霊夢も一緒に」

 紅魔館の大広間。無駄に広く、無駄に大きい館の中で、一層広く大きいのがこの大広間である。紅魔館の殆どは無駄で構成されていると言っても過言では無い。この大広間がその最たる物である。
 部屋の中心に置かれた、無駄に大きなテーブル。真赤なテーブルクロスが敷かれたそれに並ぶ十数の椅子。館で席に着くのは主人と、妹と、友人の三人のみ。晩餐会を開く事がある訳でも無い。メイド達は使われる事の無い椅子を毎日磨く。毎日、毎日。
 食事と言っても簡素な物。レミリアとフランドールは紅茶が飲めればそれで十分であるし、パチュリーにはそもそも食事は必要無い。ものの数分で終わる程度の事。食事とは名ばかりの、吸血鬼の自己満足でしかないのだが、今日を持ってそれは終わりであるらしい。
 「これは霊夢の分ね」と、霊夢の前に置かれる銀食器。丁寧に掘られたゴシック装飾と、流麗に刻まれたReimuの文字。
「霊夢へのプレゼントに作っておいたのだけれど、気に入ってくれたかしら?」
 しかし、食器がどれ程美しくあろうとも、それに盛られたのは、屑肉や野菜の切れ端を適当に混ぜただけの残飯である。
 目の餌を見て、果たして喰らうべきなのか。と、彼女は躊躇した。霊夢に昨日の記憶は殆ど無い。豚の餌を喜んで貪った事など彼女は微塵も覚えていまい。例え犬の如く扱われ様と、彼女は己を犬と思ってはいない。だがこれを喰らえば、それも終わる。犬の餌を自ら喰らうのは犬だけなのだ。これを喰らう事は自らを犬と認める事に他ならぬ。
 喰らうべきか。否か。そんな彼女の葛藤を感じ取ったのか、レミリアが「口に合わないの?」と、心配気に問い掛けた。
「咲夜、取り替えてあげて」
 言うが速いか、咲夜は既に替えの食器を手に持って、霊夢の前に。一抹の希望。白米とまでは行かずとも、何か人並みの物をという霊夢の願い。
 ことん。と、小さな音を立てて咲夜が食器を床に置いた。目の前に現れるのは、乱雑に詰め込まれた生ゴミと虫の死骸。
「昨日は美味しい、美味しいって言っていたものね」
 何度繰り返したか判らぬが、ともかく、人生とは都合良く出来てはいない。レミリアが餌を人並みの物に替える事等無い事は、少し考えれば判る事。それを期待した霊夢が浅はかだったのだ。
 そしてまた彼女は葛藤する。豚の餌を喰らうべきか、否か。解を出すのにそう時間はかかるまい。ここで豚の餌を喰わずとも、明日、明後日と犬の餌を喰わされるのは自明である。拒絶の意を示そうと、結局は何も変わるまい。
 人を捨ててまで生きるか。人を貫き死ぬか。やはり彼女に与えられた選択肢は多くない。









「美味しいです。美味しいです」









 彼女は人を捨てた。

――ねぇ、お姉さま。霊夢は何で泣いてるの?
――それは、御飯があんまりにも美味しいからよ。
――ふーん。あんな物が美味しいだなんて、豚みたいね。









 二日目 ―紅 美鈴―



 紅魔館のメイドの朝は早い。彼女等は日勤と夜勤に分けられてはいるが、それら二つは早朝の朝礼と、日没前の夕礼において交替となる。
 その朝夕の報告会、数十人のメイドが大広間にずらりと並ぶ様は壮観である。メイドとしての役割を殆ど果たしていない紅魔館のメイドではあるが、これ程の大人数が同時に生活を営むのだ、例え各々が勝手気ままにしようとも、統率する者が必要であるだろうし、統率する場も必要である。
 彼女等の前に立つのはメイド長十六夜 咲夜。彼女が居なければ、紅魔館は機能しまい。彼女がメイド長を勤めているのは、それなりの技量と、それなりのカリスマ性。そして、それなりに狂った頭を持ち合わせているからである。
 そのメイドの群れを、霊夢は部屋の隅からぼんやりと眺めていた。昨日の夕飯の後、レミリアは霊夢に様々な物を与えてくれた。銀食器の事もそうであるが、革の首輪――銀のタグに、これまた流麗な文字でReimuと刻まれた――と、毛布一枚。そして更には、大広間の一角を霊夢専用のスペースにして良いとの事である。あぁ、レミリアの何と寛大な事か。
「それで、霊夢様の事なのだけれど」
 咲夜の言葉に、メイド達が強張るのが判る。やはり彼女等も、部屋の隅の転がる霊夢が気になって仕方なかったと見える。あの博麗 霊夢が情けない姿になって部屋に居るのだ、気にするなと言う方が無茶であろう。
「彼女はお嬢様のペット、御家族ですから、くれぐれも粗相の無い様に」
 「何かあったら首が飛ぶわよ」と、簡単に咲夜は締めくくった。
 ペットで家族とはこれ如何に?と、メイド達は疑問符を浮かべたが、直ぐに考える事を放棄した。彼女達にとって、メイド長の言葉は絶対である。彼女が黒といえば、白でも黒。
「それでは、解散」
 それと同時に、綺麗に並べられた少女達が、蜘蛛の子を散らすが如く四散する。ある者は自分の部屋へ、ある者は自分の持ち場へ。そしてある者は――
「お早うございます、霊夢様」
 数人のメイドは霊夢の元に駆け寄って、各々が簡単な挨拶を。霊夢に胡麻を擂って置こうという気持ちは解らないでも無い。咲夜の言からするに、この館での霊夢の地位は主人や妹に次ぐ事になる。霊夢の機嫌を損ねれば、己の首が飛びかねない。解雇ならまだしも、文字通り首が飛ぶ事だってありえるのだ。
 ただ、霊夢にとってそんな事はどうでも良かった。霊夢の中には元々、人を好きや嫌いで分けるといった思考等存在しない。メイドの追従等彼女にはどうでも良かった。
「お早うございます、霊夢様」
 その中でも一際凛とした、透き通る声。
「あぁ、咲夜……さん。お早うございます」
 それを聞いて、「嫌ですわ、『咲夜さん』なんて。私と霊夢様の仲ですもの、『咲夜』で十分ですわ」と、咲夜が訂正する。何も彼女と霊夢が友人であったからそう勧めるのでは無い。先にも述べた通り、館のヒエラルキーは頂点にレミリアが立ち、その下にフランドール、パチュリー、霊夢。躾係と言えど、メイド長は更に下である。咲夜からすれば、霊夢に敬語を使うのは当然の事で、霊夢が自分を呼び捨てるのも当然の事。
 しかし、いくら勧められたからといって、霊夢は敬語を止める気にはならなかった。霊夢の機嫌を損ねれば首が飛ぶとメイド達が危惧した様に、咲夜の気に障れば喉を掻き切られて死ぬかもしれぬ。と、霊夢は恐怖を抱いていた。弾幕ごっこは互角と言えど、元よりに闘争に関しては咲夜の方が二枚も三枚も上手。咲夜に掛かれば今の霊夢を切り刻む事等朝飯前なのだから。
「御用がありましたら、何なりとお申し付けください」
「じゃあ、早速なんですが、厠に行きたいんです」
 思い返してみるに、一昨日、昨日と厠に行ってはいない。まぁ、厠に行く。という行為に限って言えば、ここ数週程行ってはいないのだが。
 「トイレですね。畏まりました」と、咲夜が霊夢を抱え上げると、「大丈夫です。飛べますから」と、霊夢。
「それでは、こちらへ」
 壁に掛かった鎖を外し、咲夜が歩き出す。手に持つ鎖に繋がれたのは、当然霊夢である。
 咲夜の後ろをふわふわと付いて飛ぶ霊夢の姿は何とも滑稽。飛頭盤の成り損ねが空を舞うといった笑い話だ。

 霊夢が連れて来られたのは、館の庭。外に厠がある様には思えなかったが、首輪で繋がれた霊夢は咲夜に付いて行く他無い。
 庭の中程まで来た所で、咲夜が歩みを止め、庭をに立つ長身の女性に声を掛けた。
「美鈴」
 呼ばれて振り返る、チャイナドレスの彼女。
「あぁ、咲夜さんに霊夢さん。お早うございます」
「今は霊夢様よ。昔の調子でいると、お嬢様が怒るわよ」
「あ、そうでしたね。申し訳ありません、霊夢様」
 この庭の管理は全て彼女が行っている。だから、彼女が庭の何処で何をしようと不思議は無い。
 彼女は穴を掘っていた。花壇の手入れという訳でも無く、畑を耕しているという訳でも無く。かと言って、ゴミを捨てる穴を掘っている訳でも無い様だ。
「この位でしょうかね?」
「えぇ、この位でしょうね」
 霊夢にはそれが何なのか理解出来なかった。自分は厠に行きたいと申し出た筈なのに、庭に案内され、穴掘りの見学とは。そんな彼女の疑問を知ってか知らずか、咲夜は笑顔で霊夢を抱き寄せ抱え、「さぁ、どうぞ」と、言った。
 何をすべきか。自分が何を期待されているのか。やはり、さっぱりと判らなかった。抱き抱えられ、どうぞと、言われてもこれが何であるか解らぬ内は、何事もしようが無い。
 「如何なさいました?用を足したいと仰られたのは、御自分でしょう?」と、霊夢の腹部を撫で回しながら咲夜は言う。
 そして彼女はやっと気が付いた。これは、厠だ。家畜に人用の厠を使わせる訳にはいかぬ。ならば、外で用を足させるしかない。これは霊夢のための厠、霊夢専用の厠だ。
 自然と笑いが込上げて来る。
 事、食事に関しては人を捨てた彼女であるが、まさか排泄行為までとは思いも拠らなかったのであろう。やはり彼女は浅はかだった。
 陰部を曝け出し、凝視されながら便を出す等、年頃の少女にとって恥辱以外の何物でもあるまい。しかし、今の彼女は家畜である。恥辱を感じる心を持ち合わせる事自体が間違っている。
 涙すら湧いて来ない。笑うしか無い。
 醜い音を立てながら彼女は便を出した。
 醜い音を立てながら彼女は尿を出した。
 乾いた笑い声を出しながら。

――お嬢様は、霊夢様をどうするんでしょうね?
――どうする。って、どういう意味かしら?
――いえ、太らせて食べるんですか?
――まさか。豚や牛は食べたとしても、犬や人は食べないでしょう?
――犬くらい食べますよ。巫女は食べてもいい人類って聞いた覚えもありますし。
――……愛玩するだけだと思うけど。

 「所で、霊夢様は何か芸は出来るんですか?」と、美鈴が咲夜に問い掛ける。
「さぁ、どうでしょうね。霊夢様、何か特技はお有りで?」
「特に、何も」
 「それがどうかしたの?」と、今度は咲夜が美鈴に聞き返す。
「いえ、芸の一つや二つ出来れば、お嬢様もお喜びになるのではないかと思ったもので」
 「私に任せていただければ、一つや二つは直ぐに教え込みますけど」と、美鈴は霊夢の頭を撫でながら言った。
 彼女の意見には咲夜も概ね同意である。やはり、ペットとして何かしら芸が出来た方が面白いのは確か。「じゃあ、任せてみようかしら」と、彼女は抱えた霊夢を美鈴へと渡した。

「さぁ、霊夢様。皆さんが吃驚する様な特技を教えてあげますよー」
 その豊満な胸を叩き、美鈴は得意気に胸を張る。
 この二日間で霊夢が学んだ事は二つある。一つは何を言われても、黙って従うという事。もう一つは己は、博麗 霊夢という人間では無いという事。
「お手。は、駄目ですね。腕がありませんし。お座りも立ち様が無いから関係ないですね。ちんちん……霊夢様は女の子ですからねぇ」
 何を言われても、彼女は言い返すべきでは無い。ただ、大人しく笑っていればそれでいい。
 さて、熟考に熟考を重ね、悩みに悩み、考えに考え抜いた挙句、美鈴は「じゃあ、房中術をお教えしましょう」と、声高らかに言い放った。
「得意なんですよ、そういうの」
 霊夢は困惑した。房中術。と、突然に言われてもどうしたものか。口頭で性行為について、懇々と説かれるのか。まさかとは思うが、実技を行う訳でも無いだろう。女同士と言うのはどうにも考えにくい。しかし、だ。彼女の考えに反し「女の子同士って言うのもまた一興ですよ」と、美鈴。一見常識人の様に見えても、やはり美鈴も紅魔館の住人。彼女もそれなりに狂った頭を持ち合わせている様である。
 抱き抱えられたまま、霊夢は美鈴の部屋へと。抵抗する気も起きなかった。抵抗するだけ無駄だと彼女はようやく理解した。
 霊夢をベッドの上に優しく置くと、美鈴はいそいそと服を脱ぎ始めた。しゅるりしゅるりと音を立て、布切れが一枚一枚剥がされて行く。露わになる美鈴の肢体。長い四肢に、括れた腰。筋肉質ながらも豊満な胸と形の良い尻は、女性なら誰でも憧れるであろう美しさを持っていた。
 ベットの上の霊夢に跨って、美鈴が艶かしく笑う。彼女は霊夢の服を脱がす事はせずに、ゆっくりと首筋に指を這わす。霊夢の鼻腔を美鈴の香りがくすぐる。多少汗臭くはあったが、官能的ないやらしい匂い――それが白檀の香りであると気付いたのは、事が終わってからであった。
「上手に出来たら、ご褒美をあげますからね」
 美鈴が指した先を見ると、小さな器が置いてあった。その中にあるのは、数枚のクッキー。
 久し振りに見た、人の食べる物。喉から手が出る程欲しかった、人の食べ物。
「上手に出来るようになれば、お嬢様も喜びますよ。犬や豚と交尾する時にも役立つでしょうし」

――食べたい。あれが食べたい。

 美鈴が自分の性器に指を宛がう。

――どうしても食べたい。どうしてもあれが。

 美鈴の穴が糸を引き、音を立て、開く。

「さぁ、頑張ってくださいね」



――あぁ、あれが欲しい。



























 ナニガホシイ?









『閑話休日』

 ]日目 ―フランドール・スカーレット―



 この館の生活も悪くない。
 霊夢は日増しにそう思う様になっていた。何もせず、ただ笑っているだけで飯が食える。メイド達は霊夢様。霊夢様と呼び世話を焼いてくれる。生きるのに苦労する事等、何も、無い。

「咲夜。最近霊夢が汗臭い気がするのよ」
「そう言えば、ここに連れて来てから、お風呂に入れた覚えがありませんわ」
「ペットと言えど、不衛生なのはいただけないわね」
「ならば直ぐにでも入浴させますが」
「えぇ、そうして頂戴」

 咲夜が霊夢の身体をゆっくりと浴槽へ沈める。「お湯加減は如何です?」と、聞かれたが、久々の風呂の気持ち良さに声が出なかった。湯を掬い、身体を撫でる咲夜の手が、暖かく心地良い。
 水に浮かぶ感覚は、まるで揺り籠に揺られる様で、そのまま眠りに落ちて溶けてしまいそう。
 ふぅ。と、吐いた息が湯煙に混じり、上へ上へと昇って行く。
「ねぇ、咲夜。私も入っていい?」
 突然浴室内に響く、フランドールの声。
「構いませんけれど、浴槽には入ってはいけませんよ」
「うん、解ってる」
 フランドールは吸血鬼。風呂に入っても、浴槽には漬かれぬ。何をするでも無い。ただ、浴槽の縁に寄りかかり、霊夢が水に揺れるのを眺めているだけ。霊夢は心底嬉しそうなフランドールの顔を眺め。咲夜はそんな二人の顔を眺め。
 フランドールが「霊夢の頭を洗ってあげたい」と、申し出た時はどうなる事かと思ったが、特に問題は起こらなかった。手つきは多少ぎこちなくはあるものの、優しく丁寧にという気持ちが見て取れた。霊夢の方も終止笑顔であった。

「巫女服の方ですが、洗濯をしておりますので、数日の間はメイド服で我慢して下さいませ」
 初めてメイド服と言う物を着てみたが、着心地は中々悪く無い。

 この館の生活も悪くは、無い。









 十]日目 ―パチュリー・ノーレッジ―



 霊夢はパチュリーの書斎に居た。
 咲夜は、里に用があると言って、朝から出掛けている。
「今日のお世話は、小悪魔が担当します」
 世話係が咲夜から変わる事に不安はあったが、代替は小悪魔。温厚を絵に描いた様な彼女である。多寡が一日、何も心配はいらないと、霊夢もそれを了承した。
 そして今、霊夢はパチュリーの足元に転がって、本を読んでいた。パチュリーは然程霊夢に興味は無い様で、何も言わずに彼女も本を読んでいた。
 霊夢が開くのは哲学書。そこらに置いてあった本を引っ張り出し来た物ではあるが、これが中々どうして面白い。哲学という物は下らない物である。哲学をするために哲学をするといった、暇人の道楽である。その暇人達が書き残した下らない本等、毒にも薬にもならぬ。暇潰しには持って来いと言えた。
 辞書程の厚さの本を数十頁程読み終えた所で、霊夢の腹が、くぅ。と可愛い音を立てた。書斎に窓は無く、日の高さを確かめようが無い。今が何時かは判らぬが、腹時計からすると正午近くという事になるのだが。
 そこで霊夢は、本を整理にせっせと周りを駆け回る小悪魔に「ねぇ、小悪魔。ちょっとお腹が空いたのだけれど」と、声を掛けた。小悪魔は足を止め、「判りました、それではこちらに」と。ふわりと浮いて、霊夢は小悪魔の後ろに付いて行く。
 「ここでお待ち下さい」と、書斎の奥で言われ、待つこと数分。小悪魔が霊夢の食器を持って現れた。それに盛られたのは、やはり屑肉と野菜の切れ端を混ぜただけの犬の餌であったが、霊夢には慣れた物。ここ数日の内に最早それを喰らう事に抵抗は無くなっていた。
 小悪魔が床に食器を置く。霊夢の眼前では無く、己の足元に。そして何を思ったのか、彼女はスカートに手を掛け、静かに捲り上げた。そのまま下着に手を掛けて、また静かにそれを下ろす。外気に晒される、小悪魔の性器。彼女は何をしたいのだろうか?
 「んっ」と、艶かしい声を上げ、頬を微かに蒸気させながら、近くの本棚に手を置いて、彼女は下半身に力を込める。微かに震える彼女から放たれるのは、黄金色の水。初めはちょろちょろと、そして徐々に勢いを増し、霊夢の餌へと注がれる小悪魔の尿。
 「んん」と、喘ぎ声の様な声を上げ、最後の一滴まで絞り尽くすと、「はい、どうぞ。霊夢様」と、小悪魔はにこりと笑って、餌皿を霊夢の前に差し出した。
 何がしたいのか。何をされたのか。食器に己の尿を注ぐ等、正気ではない。そしてそれを喰えと彼女は言っている。
「どうしたんですか?食べないんですか?」
「あの、小悪魔――
 そして突然の衝撃。肺に突き刺さるような痛みが鋭く走る。くの字に折れた霊夢の身体。息が漏れる。呼吸が出来ない。彼女に出来る事と言えば、げほげほと咳き込む事くらい。
 何があったのかと、霊夢が霞む視界で見上げると、そこには意地の悪い笑みを浮かべた小悪魔が立っていた。小悪魔が、思い切り、霊夢の鳩尾を蹴り飛ばしていたのだ。
「咲夜さんには敬語なのに、私は呼び捨てですか?」
 「私は家畜以下ですか?そうなんですか?」と、笑いながら、彼女は霊夢を蹴り続ける。霊夢は蹴られるがまま。抵抗する術を持たない彼女に出来るのは、団子虫の様に身体を丸める事だけである。
「貴女は家畜で、私は司書ですよ。私の方が上なんですよ?」
 「申し訳ありません。申し訳ありません。小悪魔様」と、霊夢が哀願する様に悲鳴を上げる。まぁ、小悪魔も鬼では無い。慈悲の心は持ち合わせている。
「解ればいいんですよ、解れば。じゃあ、御飯にしましょうね」
 霊夢が視線を餌皿に戻す。アンモニア臭が漂うそれは、心成しか湯気が立ち昇る様にも見える。そして、それを差し出しながら、「折角私が、おしっこを『掛けてあげた』んですよ?食べられない訳無いですよね?」と、小悪魔は笑う。
 これは小悪魔の慈悲だ。味気ない昼食を、優雅な物に替えてあげたのだ。家畜には部相応な悪魔の尿で。
 食べるしかない。喜んで食べるしか道は無い。
 そう、これは喜ばしい事なのだ。
 悪魔の尿を戴けるのだから。
 霊夢はそれに口を付けた。口の中に広がる塩の味。豚の餌や己の糞便に比べれば、食べられない物では無いと、自分に言い聞かせ、霊夢は汚物と犬の餌を喰った。
「そうですよ。それでいいんですよ。醜い家畜の分際で――
 高笑いする小悪魔の身体が、突然爆ぜる。錐揉みしながら宙を舞い、そのまま本棚に突っ込んで――
「火符「アグニシャイン」」
――小悪魔が吹き飛んだ方向とは逆側に、パチュリーが欠伸をしながら立っていた。
「貴女は、もう少し賢い娘だと思っていたのだけれど、私の買い被りだったみたいね」
 面倒臭いと言いた気な、憂いを帯びた瞳で彼女は言い放つ。
 吹き飛んだ小悪魔の方は半死半生といった所。人間ならば絶命している様な傷を負いながらも、彼女はまだ生きていた。手足は焼け焦げ、裂けた腹からはみ出る内臓をずるずると引き摺って。先程まで黒い笑顔を浮かべていた顔は爛れ、言われなければ彼女とは判らない程に。
 肉が焼け焦げる匂い。腐ったゴミよりも臭い、人が焼ける臭い。
 炭化した彼女の皮膚がボロボロと剥がれ落ちて行く。
「パ、パチュリー様」
「貴女の不手際で、レミィに怒られるのは私なのよ。要らない手間を掛けさせないで欲しいわね」
 彼女はポリポリと頭を掻いて、芯から失望したといった表情で額に皺を寄せている。全幅の信頼を置いていた小悪魔が、よもやこれ程使えない女だとは思ってはいなかったのだろう。
「申し訳ありません、パチュリー様。どうか、どうか御慈悲を」
 先程の霊夢の様に悲鳴を上げて、小悪魔はパチュリーの足に縋り付く。まぁ、パチュリーも悪魔では無い。慈悲の心はそれ相応に持ち合わせている。
「なら、貴女に、私の嫌いな物を二つ教えてあげましょう」
「どうか御慈悲を、御慈悲を」
 パチュリーがゆっくりと歌う様に呟いて、その手を翳す。

「頭の悪い女と、しつこい女よ」



――日符「ロイヤルフレア」









 熱風が過ぎ去った後、書斎の中に小悪魔らしき物の姿は何処にも無かった。あるのは真黒に焼け焦げた人型の何か。
「本の整理しか能の無い生き物が、家畜より上とは笑わせてくれるわね」
 「また、新しいのを作らなきゃいけないわね」と、ぶつぶつ呟いて、彼女は読書を再開した。
「霊夢。すまないけれど、今日の昼食は抜きという事して頂戴」

――どうしてもと言うのなら、これでもどうかしら。

 彼女は視線を本から移す事無く、己の足を握り締める腕を剥ぎ取り、投げて寄越した。









 最終日 ―レミリア・スカーレット―



 魔理沙は怯えていた。布団に包まりカタカタと震えていた。
 ここ数ヶ月、まともに外に出ていない。ここ数ヶ月、まともに眠った覚えが無い。外を歩けば彼女が居るのでは無いかと。目を瞑れば瞼に焼きついた彼女の顔がある。
 魔理沙は痩せこけていた。数ヶ月の間、恐怖で毛も抜け落ちた。今の彼女の姿を人が見れば餓鬼と形容するかもしれない程に。
 彼女は恐ろしかった、無二の友人、博麗 霊夢の変わり果てた姿が。
 コンコンと、誰かがドアを叩く音がした。彼女の身体が大きく跳ねる。
 誰かが来た。誰が来たかは解らない。
 ドアを開けるべきか。
 よろよろと立ち上がり、ふらふらと玄関へ。
「どちら……様?」
 恐る恐る、扉の向こうの人物へ問い掛ける。
「レミリアだけれど」
 幼いながらも威圧感のある声。この声は間違いない、レミリア本人の物である。
 霊夢では無い。霊夢では無いのなら大丈夫。彼女は誰かに助けて欲しかった。誰かにこの恐怖心を紛らわせて欲しかった。
 「入ってくれ」と、返事をし、鍵を回すと、ゆっくりとドアノブが回った。きぃ。と、軋んだ音を立て、ゆっくりと扉が開く。
「ごきげんよう。魔理沙」
「失礼いたします」
 幼き夜の王は、何時もの様に従者を引き連れて、貴婦人の様に笑う。従者は右手に日傘を持ち、左手に鎖を持って。
 鎖。
 咲夜の持つ鎖は下に伸び、首輪の付いた何かへと。
「ほら、霊夢。挨拶なさい」
「こんにちわ。魔理沙」
 鎖の先。魔理沙の足元では、あの霊夢が笑みを浮かべて見上げていた。
 魔理沙は腰を抜かした。一番恐れていた、あの霊夢がここにいる。いや、あの霊夢と言うのは正しく無い。彼女の姿は、魔理沙が最後に見た物とは違い、血色も良く、少女相応の脂肪が蓄えられていた。
「霊夢が、どうしても魔理沙に会いたいって」
「どうして、どうして」
 どうして彼女がここにいる?何故彼女は美しい笑顔を浮かべている?
「どうして霊夢が裸なのかっていう事?」
 魔理沙が聞きたいのはそんな事では無い。確かに霊夢が一糸纏わぬ姿で居るという事も疑問に残るが、今一番重要なのは、彼女がこの場に居るという事。
「お腹を締め付けるのは良くないと思ってねぇ」
「違う。違う。違う違う違う。何で?何で霊夢がここに居るの?」
「あぁ、そういう事?霊夢は私のペットになってくれたのよ。羨ましいでしょう?」
 そこで、ようやっと合点がいった。霊夢がここに居る事、鎖で繋がれた彼女。
 彼女は犬だ。レミリアの家畜だ。家畜に成り下がった彼女と、それ相応の姿。
「なんて、酷い」
 人をペットにするなんて馬鹿気ている。馬鹿にしている。人を犬や猫と同じ様に扱う等と。
「何が酷いの?」
 「だって、こんな、こんな。人を、ペットだなんて」と、魔理沙が半狂乱になって叫ぶ。それを聞いて一転、柔和だったレミリアの瞳が、刺し穿つ様な鋭い物へ。「ひっ」と、引き攣った声が彼女の口から漏れる。
「お前のゴミクズ以下の下らない倫理観を押し付ないで貰おうか。霊夢を見捨てたお前に、私を貶める権利はあるのか?私は霊夢を助けた。お前は見捨てた。酷いのはお前だろうに」
 魔理沙は恐怖心に負け、友人を捨てた。レミリアは霊夢を救った。喩え彼女を家畜の様に扱おうと、霊夢自身がそれを受け入れた。そこに魔理沙がとやかく言う権利は何処にも無い。
 「それでね、今日ここに来た理由なんだけれど」と、レミリアは屈み、霊夢の下腹部を優しく撫でる。
「霊夢はお母さんになったのよ」

「パチェに頼んで、私達の子供を孕める様に――逆ね、私達が霊夢を孕ませられる様にして貰ったのよ。一昼夜輪して犯したけれど、霊夢の中、とっても具合が良かったわ。後で聞いたんですけど、美鈴が教えたんですって?そう言えば、あの時の咲夜の乱れ様と言ったら――
「嫌ですわ、お嬢様。こんな所で」
 惚気る二人に魔理沙は目を白黒させている。それもそうだ、理解しろと言う方がどうかしている。少女が少女を犯し、あまつさえ妊娠させる等、理解の範疇を疾うに越えている。
「誰の子かは判らないけれど、誰に似ても可愛い子が生まれてくるでしょうね。咲夜の子ならとても賢いでしょうし、美鈴の子なら綺麗な髪の女の子かしら。フランの子なら、それはそれは愛らしい子になるでしょうね。今は三ヶ月くらいかしら?あと数ヶ月で母乳も出るわ。紅茶のミルクに使えるわね」
 魔理沙には、レミリアの横で嬉しそうに撫でられる霊夢が、余りにも不憫だった。あの気高き博麗の巫女が今やここまで堕ちた。魔理沙はそれが不憫でしょうがなかった。
 自然と涙が溢れ出てくる。堪えようにも、もう間に合わない。潤んだ瞳から、涙はぽろぽろと零れ落ちる。
「どうしたの?突然泣き出すなんて。貴女らしくも無い」
 何時もの様に、柔らかな声。
 折角魔理沙に会いに来たと言うのに、突然泣き出されては、こちらまで悲しくなる。と、霊夢は思った。だから彼女は「ねぇ、どうしたの?」と、魔理沙に問い掛けた。涙を流す友人をどうして放って置けようか。
 ずるりずるりと身体を引き摺って。「ねぇ、どうしたの?」と。
 ずるりずるりと魔理沙の方へ。「ねぇ、どうしたの?」と。
「ねぇ、魔理沙。笑ってあげないと、霊夢が悲しむでしょう?折角会えたっていうのに」
 レミリアの言葉は届かない。魔理沙はただ涙を流すだけ。
「ほら、笑わないと」
 大粒の涙が頬を伝い、床へと落ちる。
「笑いなさい」
 声は上げない。嗚咽を漏らし、彼女は泣きじゃくるのみ。








「   笑   え   っ   !   」

 レミリアの怒号を聞いて、魔理沙は乾いた笑いを漏らした。それを見てレミリアは満足気に笑う。釣られて咲夜も笑う。
 彼女は笑う。「ごめんね、霊夢。ごめんね、霊夢」と、壊れた蓄音機の用に同じ言葉を繰り返しながら。霊夢の身体を抱きしめて、彼女は泣きながら笑う。
 涙を拭ってやる事も出来ず、霊夢は魔理沙の頬から流れ落ちる涙をただ、ただ舐めていた。



























 里では博麗の巫女が死んだという噂が流れていた。
 ある若者が神社へ行ってみた所、巫女の姿は何処にも無かった。
 荒み切った部屋の中に、数本の人骨が置かれていただけである。

 博麗 霊夢は死んだ。

 博麗 霊夢と呼ばれる巫女は何処にも居ない。
 ここに飼い慣らされた家畜が一匹居るだけである。









 博麗 霊夢は満ち足りていた。



                                                 ―了―